劇場文化

2013年6月16日

【生と死のあわいを生きて】小島章司の踊った日本とスペイン(山野博大)

 小島章司は、1939(昭14)年10月1日、徳島県に生まれた。はじめは音楽家を志し、上京して武蔵野音楽大学声楽科に入った。しかし彼の興味は早い時期からスペイン舞踊に移り、1966(昭41)年には、26歳でスペインに留学する。直後の1967(昭42)年、スペイン国立舞踊団に入団し、直後に行われたソ連ツアーの一員に加えられる。彼の転向は大正解だった。
 1968(昭43)年には、歌手のラファエル・ファリーナに認められ、一座のスター・ダンサーとしてマドリードの劇場での長期公演で踊る。以後、スペイン各地でさまざまな舞台を踏むが、若さにまかせて1カ月に50回も踊った無理がたたり、3年目に過労でからだをこわしてしまう。
 病気療養中の踊れない時期に、彼はスペイン人にスペイン舞踊を教えた。しかしこれは、まったくありえない出来事だった。スペイン生まれの歌舞伎役者に指導されて、はたして日本人は納得してついて行くだろうか。誇り高きスペインのダンサーたちが彼に教えを乞うようになったのは、小島が日本人のダンサーとして各地の舞台で評判を得ただけではなく、スペイン国営テレビでその映像が全国に流れ、広く名前を知られるようになっていたからだ。1971(昭46)年のフラメンコ・フェスティバルでは、日本人として初めて踊る機会を得たし、またパリのスペイン民族舞踊団に振付者として招かれるなど、活動の範囲を着実にひろげて行った。
 日本での活動は、スペイン行きから10年後の1976(昭51)年から開始する。帰国し《フラメンコの夜》で全国各地で踊った後、1980(昭55)年には、東京にスタジオを開設し、後進の指導と創作活動に力を注ぎ始める。

 彼が日本人でありながらスペイン舞踊にのめり込んだことが、それまでになかった舞踊的成果をもたらす結果を呼んだ。彼は四国の出身なので、全国から何百万人もが集まる大イベントの阿波踊りに親しんで成長したことは言うまでもない。彼は日本の芸能の良さ、楽しさ、スケールの大きさを熟知している。その上、彼の生れたところは、江戸後期に各地で流行した「よしこの節」の流れを色濃く残す土地とのことで、京風の雅やかな踊りの持つ優しい雰囲気にも親近感を覚えると、彼から聞いたことがある。そんな環境が、彼のスペイン舞踊に影響し、独特のカラーを加えたのだ。
 日本に古来から伝わる芸能は、年齢の高い者にも門戸が開かれている。例えば能の秘曲である、世阿弥作の可能性が高いと言われる『関寺小町』には、100歳の小野小町が登場する。つい最近の国立能楽堂創立30周年記念公演で上演され、83歳の能楽師が舞ったが、若さが売り物のクラシック・バレエとはかなり様子が違った。
 73歳になる小島章司は、今も現役のダンサーとして日本ばかりかスペインの舞台でもりっぱに通用する。2011年12月の《小島章司フラメンコ舞踊団2011》東京凱旋公演において、スペイン開催のフェスティバル・デ・ヘレスに招かれて上演した『ラ・セレスティーナ~三人のパブロ』を再演し、自ら魔女セレスティーナ役を演じて日本人ならではの舞踊表現のすばらしさを示した。この舞台で彼は第32回ニムラ舞踊賞を受賞している。2009(平21)年には、スペイン国王より文民功労勲章エンコミエンダ章を贈られている。彼はスペイン舞踊の世界へ、高齢者の演ずる日本的な芸の奥の深さを導入し、それでスペイン、日本の両国のファンを納得させた。世界的に高齢化が加速するこの地球上で、彼のやっていることは大きな意味を持つ。
 こんど静岡芸術劇場で上演される『生と死のあわいを生きて~フェデリコの魂に捧げる~』は、1936(昭11)年に起きたスペイン内戦の犠牲になった詩人であり、劇作家のフェデリコ・ガルシーア・ロルカに捧げられている。小島のロルカへの共感は深く、これまでに『ガルシア・ロルカへのオマージュ』(1998年)、『FEDERICO』(2006年)など、多くの作品を発表してきた。彼がスペイン舞踊への理解をいっそう深め、真摯なロルカへの傾倒ぶりを舞踊で表現した作品の成果が期待される。高齢になっても、民衆を守る立場を常に意識し、芸術の革新を忘れない小島章司の変わらぬ「新しさ」に注目しよう。

【筆者プロフィール】
山野 博大 YAMANO Hakudai
舞踊評論家。1936年4月10日、東京生まれ。1957年より批評、解説等を執筆。舞踊関係各賞の選考、各地コンクールの審査にあたる。武蔵野音楽大学、有明教育芸術短期大学で舞踊史を講義。舞踊批評塾主宰。2006年、文化庁長官表彰。